
「完全な独立」とは教授のポストの五十%以上を自校の卒業生で占める場合。「ほぼ独立」とは自校の卒業生が三十五%から四十九%、ほかの大学よりは多い場合。「傘下」は五十%以上が学閥校に占められている場合。「ほぼ傘下」は三十五%から四十九%が学閥校に占められている場合。「影響下」とは十五%から三十四%が学閥校に占められている場合。(p.132)
・京都大学医学部閥
傘下
関西医科大学
ほぼ傘下
滋賀医科大学
影響下
福井医科大学
三重大学
近畿大学
島根医科大学
香川医科大学
・大阪大学医学部閥
傘下
兵庫医科大学
ほぼ傘下
愛媛大学
影響下
近畿大学
(pp.136〜137)
以上からわかることは、旧制六医大は旧帝大の支配からは脱したが、その旧制六医大は、千葉大を除き新設医大を、東大が行ったのと同じようにほぼ傘下、あるいはその影響下に置いていることである。同様に旧帝大は新設医大の多くに教授を送り込み、しっかり学閥を作り上げている。(pp.141,145)

・奈良県立医科大学(三十四)
自校出身二十人、阪大四人、東大一人で完全に独立している。ほか八校九人。
・和歌山県立医科大学(三十六)
自校出身十七人、京大、大阪市大各三人、東大二人。ほぼ独立とみていいだろう。ほか十一校十一人。
・徳島大学医学部(四十二)
自校出身十九人、東大、神戸大各三人、ほか十二校十七人。ほぼ独立とみていい。
・三重大学医学部(三十七)
自校出身十二人、京大七人、阪大四人、東大、名古屋大各三人で、独立には至らない。京大の影響を受ける。ほか六校八人。
・広島大学医学部(三十六)
自校出身二十四人、京大、九大各二人、東大0人、完全独立して対抗する勢力もない。ほか八校八人。
・岡山大学大学院医歯学総合研究科・医学部(四十七)
自校出身二十七人、東大、北大各四人。完全に独立している。ほか九校十二人。
(カッコ内は全教授数。pp.124〜129)

「財前というのは、ちょっとばかりの才能を鼻にかけ、若輩のくせに思い上がって、のさばり過ぎている、廊下であっても、われわれ先輩に対するあの態度は何だ、まるでプロレスラーか犬殺し屋みたいな大きな図体を廊下一杯にのさばらせ、もう少し小さくなって歩けんものかね、僕が奈良大学から呼び戻されて、母校へ帰って来た時、真っ先に目についたのはあいつの増長ぶりだよ、この際、あの生意気な根性を徹底的に叩き直すためにも、地方へ出して冷飯の味を覚えさせることだな」
浪速大学の助教授から、系列校である奈良大学の教授に出され、七年ぶりに一昨年、母校へ戻って来たばかりの乾は、財前が何の苦労も、寄り道もせずに、ストレートに本学の教授になることが苦々しい様子であった。(p.199)

「十二月十日締切日までに、本学へ推薦されて来ました候補者は十名で、その氏名を発表しますと、名古屋大学矢田教授、千葉大学橘助教授、東北大学三上教授、三重大学雨宮教授、洛北大学曲直部助教授、金沢大学菊川教授、広島大学今教授、岡山大学梶谷教授、徳島大学葛西教授、それに本学の財前助教授の諸氏であります」(p.186)
「そう致しますと、洛北大学系では、洛北大学の脳・神経外科の曲直部助教授と、三重大学の雨宮教授ですが、二人を比較すると、やはら洛北大学の曲直部助教授になるでしょうね。」(p.189)
「まあ、そうした議論はあとですることにして、選考をすすめましょう、次は九大系の広島大学の血管外科の今教授と岡山大学の制癌剤研究の梶谷教授のどちらかということになりますが、(後略)」(p.189)
「(前略)それに今教授は、あと二年で退官する母校の九州大学第一外科教授の後任として呼び返されるそうですよ」(p.192)

「ですが、次期教授の呼び声の高い助教授が、ストレートに教授に昇格するとは、必ずしもきまっていませんからね、つい最近では、あの第三内科の教授の場合だって、そうじゃありませんか、呼び声の高かった本学出身の助教授が駄目で、京都の洛北大学系から来たじゃあありませんか」
佃が事実を突きつけるように云うと、
(中略)
「先生もほんとうにそうお考えですか、それで安心しました、僕たち医局員は、この際、財前助教授が教授になり、金井講師が助教授になられることが、教室のために一番よいことだと思っていますよ」
勢い込むように云うと、
「いや、俺など、まだ助教授なんて柄じゃないよ、第一、助教授なら、筆頭講師の南先生の方が順序だし、適任だろう」
と云いながらも、金井の眼に佃の言葉を肯定する笑いが奔るのを、佃は見逃さなかった。(pp.127〜128)
今津は、第二外科の主任教授であったが、六年前の教授選挙の時、東の強力な後押しで、危うく学外からの移入教授を阻止し、助教授から教授に格上げになったのであった。それだけに今もって、東に非常な恩義を感じ、一般に大学病院の第一外科と第二外科というのは、互いに競争意識が激しく、仲の悪いのが通例であったが、東が主宰する第一外科と、今津が主宰する第二外科は、この通例を破って非常に協力的であった。(p.132)
鍋島外科病院の院長である鍋島貫治は、財前より十年先輩の第一外科出身の外科医で、市会議員の肩書きを持ち、その方の役職も忙しく飛び廻らなければならなかったから、難しい手術の時は、何時も財前に手術を依頼して来ていたのであった。(p.142)
(財前)「そうなんですよ、最初、僕も半信半疑だったんですが、今日、自分の眼ではっきりと東教授の顔色を見て、これは確かだと思い、僕もよっぽど東教授に嫌われたものだと、がっくり来てしまいましたよ、ここへ手術に来るのも、案外、先が短いかもしれません、外から教授が入ると、僕は和歌山大学か、奈良大学あたりへ教授として出されてしまいますからね」
(中略)
(鍋島)「何? 東都大学系――、そうすると、二代も続いて東都大学にやられるというわけか、そんなことは断じて許せん、わしだけやない、第一外科出身で他大学へ行っている者も、開業している者も、東都大学出身の教授が二代も続くなど全く聞き捨てならん、だいたい東都大学などというのは、国立大学の中でも権力主義の権化のようなところで、浪速大学のような在野精神に満ちているところとは、根本的に相容れぬものがある」(p.143)

(東佐枝子は)、聖和女学院時代の級友である里見三知代を訪れることにしたのだった。
里見三知代とは、お互いに医学者を父に持っていることと、三知代の実父で、現在、名古屋大学の医学部長をしている羽田融が、曾て浪速大学医学部の助教授であったことから、在学中から何となく話が通じ合う友人であった。(p.89)
滝村名誉教授は、東教授の前の教授であったから、佃たちは直接の教えは受けていなかったが、第一外科出身の名誉教授で、日本外科学会の大御所的存在であったから、第一外科が率先して喜寿の祝賀会の世話をしなければならなかった。(p.119)
筆頭講師の南と、次席講師の金井であった。南は、財前助教授より三つ齢下の四十歳の筆頭講師であったが、大学の研究室が好きだから、何時までも残っているといった
(教授夫人たちの集まりであるくれない会で)
「ほら、この二月に停年退官なすった第三内科の石山教授、あの方はほんとうにお気の毒でございましたわね、ご自分はもちろんのこと、周囲の方々も、当然、鉄道病院の院長になられるものとばかり思っておりましたら、どなたかが手を廻されて、廻り廻って運輸大臣の佐藤万治さんの鶴の一声で、土壇場で駄目になってしまって、それから慌てて、大阪市民病院や、研究所などにまで手を廻されたのが、全部駄目で、とうとうあまり有名でもない会社の顧問医ということで、僅かな捨扶持を戴いておられるそうでございますわ、在官中教授にまでなりながら、あんなのを拝見致しますと、私の方も、あと四年で停年退官でございますけれど、とても、安心などしておられませんわ」(p.88)
文部次官の原と、東とは同県の兵庫県の出身で、しかも原の方が大分、後輩であったが、同じ東都大学出身という関係から、今度の浪速大学附属病院の新館建設の文部省関係の陳情や事務手続を円滑に運んでくれた相手であった。(p.109)
「実は、厚生省の公衆衛生局長をしている僕の友人にずっと働きかけ、彼も骨惜しみなくやってくれたのですが、何分、国立関西病院は歴代、内科の院長という妙な不文律のようなものがあって、その上、ちょうど東さんと同じ時期に、大阪市立医科大学第二内科の角川教授も退官されるのですが、この人が東さんより先に国立関西病院を狙い、厚生省関係の局長クラスを大部分押さえて、既に相当な効果をあげてしまっている現状なんですよ」
(中略)
「ですが、もう一つの来春、完成の運びで新設中の近畿労災病院の方は、うまく行っていますよ、あの方は、医系議員を通してやっているのです、つまり、医師出身で医師会を地盤にして出ている医系議員は、驚くほど鉄道病院や遞信病院、労災病院などの最高人事に実力を持っているのですよ、(中略)
いかにも、荒川大臣を助けて、日教組と闘って来た辣腕家らしいきれを見せたものの云い方であった。(p.113)
東は、既に原が政界入りを決意し、そのために新館増設の裏面工作に力を貸し、その上さらに自分の退官後の行先に奔走してくれ、その代り、彼が衆議院選挙に出る時、関西における東の患者や医者関係の地盤を利用しようとしている腹づもりを読み取っていた。鵜飼は、新館増設を次期学長選への実績に利用し、東自身は、その功績によって間違いなく名誉教授になり、その肩書によって、よりよい条件で退官後の行先を得ようともくろんであいる。いわば、三人三様、互いに自分の利得のために画策し、そのために新館増設に力を尽くしているのであった。(pp.114〜115)
何もかも、人と人との繋がりによって動き、それが実力よりも大きな働きをする不条理な世の中だと、不快になりながらも、なお原に頼らなければならぬかと思うと、東は今さらながら、国立大学の教授といっても、現職であってこその教授で、停年退官を迎える教授の力の無さを感じた。なまじ医学者であり、国立大学の教授であるために、そこらの商社の役員のように傍系会社へ自分を売りに廻るわけにもいかず、そうかといって黙っていても向うから頼んで来るような二流の地方大学の学長や、地方都市の市民病院長になるぐらいなら、いささかの恒産があるのを幸いに、悠悠自適する方がましだとも考えた。(p.115)

それは、この班会議の班長であり、東都大学の第二外科の主任教授である船尾に対する多分に儀礼的な意味を含めた聞き方であった。班会議は、文部省から支出された研究費によって、大学の臨床、基礎、研究機関の教授たちが、横の連絡を取りながら、共通のテーマを研究する集りで、班長には文部省との交渉に実力を持つ政治力のある教授がなり、その実力によって、年間三百万円ぐらいの研究費を握って、各メンバーに配分することになっていた。それだけに、班会議のメンバーたちには、何かにつけて班長である船尾をたて、船尾に憚るような雰囲気があった。
しかし、東からみれば、船尾の存在は、微妙な存在であった。自分より十一歳齢下の船尾は、かつて東都大学で東の兄弟子であった瀬川教授の門下であったが、現在、東都大学の教授であり、班会議の班長をしているから、東としては、一目おかねばならぬ微妙な関係にあった。(p.78)
東は自分のために空けられた席についてみると、別に席順などきめていないと云っている席が、実によく出来ていることに気附いた。班長である船尾と東の席の次は、旧帝国大学の国立大学、その次は旧単科医科大学の官立大学、新制大学というような順で席が並び、同一大学から二人出席している場合は、卒業年次の早い者が上席に着くという順になっていた。(p.80)
「ええ、来年の三月がいよいよ私の停年退官の時期にあたっているので、私のあとを継いで、うちの第一外科を切って廻せるような人物がほしいのですよ。」
東は、一気にそう云った。船尾は怪訝そうに東の顔を見、
「おたくには、あの財前君という食道外科で定評のある、腕のたつ助教授がちゃんといるじゃありませんか、うちの教室のいる連中は、東都大学以外は大学じゃないなどと考えているほど、東都大学絶対主義の連中が多いのですが、おたくの財前君には、さすがに意識してますよ、(中略)
「ええ、そりあ、心あたりはないことはありませんが、ただ東都大学の系列下の大学ならともかく、浪速大学出身者で固められている当の浪速大学へ、東都大学出身の者を出すことは、まるで、姑、小姑いじめの多いところへ、一人だけ可愛い弟子を婿入りさせるようなものですからね、これがちょっと可哀そうで――」
(中略)
「なるほど、可愛い弟子につまらぬ苦労をさせたくないというお考えですか、しかし、その点はご心配なく、教室の姑、小姑にいじめられる苦労は、私自身が十六年前にいやというほど経験しましたが、今度、私のあとへ来る人は、既に私が切り拓き、地均らしした地盤へ来るのですから、そんな苦労はありませんよ。それに船尾さん、あなただって、正直なところ、この話は悪くない話でしょう、あなたの時代に、東都大学のあなたの門下生を浪速大学へ送り込んでおくということは、あなた自身のジッツ(ポスト)の拡張になり、それだけ、主任教授としての船尾さんの勢力が拡大されることじゃないですか」(p.83)
(船尾教授よりの手紙)
その際、ご依頼を受けました東教授の後任候補者の人選の件は、非常に延引致しておりましたが、(中略)別紙同封の如く、現新潟大学教授亀井慶一君と、現金沢大学教授菊川昇君の二名を推薦致します。
(中略)
学歴と職歴は、両者よく似たもので、どちらも地方の名門中学校から旧制第一高等学校理科へ入学、さらに東都大学医学部へ進学し、卒業後、教室に残って副手、助手、講師を経て、ともに昭和三十二年に東都大学医学部講師から、地方国立大学医学部の教授に就任している四十三歳の少壮教授であった。(p.107)

曽祖父も、祖父も、国立大学医学部の教授であり、殊に祖父は、その附属病院の院長であった家庭に育った佐枝子は、日常茶飯事にような応え方をしたが、それが佐枝子を縁遠くしている一つの原因でもあった。(p.21)
「何? 開業医――、国立大学教授の娘が、街の一開業医と結婚したいと云うのか」
「いけませんでしたかしら?」
静かな眼ざしの中に、父の言葉を詰るような光があった。
「絶対、反対だよ、何代も続いている有名な個人病院や医院の場合は別として、一般の開業医になる者の多くは、大学の医学部を卒業して、教室に残りたくても、残れず、大学での出世コースを進むことも、地方の大学病院の勤務医としてのコースを歩むことも出来ない者が、仕方なく開業医になる場合が多いのだ、こともあろうに、一介の町医者となど……」
曽祖父の代から国立大学教授になることを、東家の変えることの出来ぬ聖職と考え、その道をまっすぐに歩んで来た東貞蔵の頭の中には、医者と云えば、国立大学医学部の教授か、せいぜい助教授、講師ぐらいの姿しか思い描くことが出来ず、牢固とした開業医に対する偏見を抱いていた。
(中略)
東の長男である東哲夫は、医者になることを嫌い、中国文学を専攻することを望んだのであったが、医学者である祖父と父の強固な反対に会い、無理に無理を重ねた理科系の受験勉強に苦しんだあげく、高等学校から新潟医大へ入学したその年に胸を病み、戦争中の食糧不足が加わって二十二歳で夭逝してしまったのであった。(pp.21〜22)
「お祖父さまとお祖母さま、或いはお父さまとお母さまのようなご結婚でございますわ、お祖父さまが恩師の令嬢であるお祖母さまをお戴きになり、お父様がお祖母さまのご縁続きの著名な法医学者の娘であるお母さまを妻にお迎えになり、その閨閥と学閥との繋がりで、お祖父さまは正四位勲二等勅任官の国立洛北大学附属病院長にまでおなりになり、お父さまも、母校の東都大学で教授におなりになれなかったとはいえ、浪速大学でご自分より古い方々を飛び越して教授になられ、東家は結婚という意識的な培養によって出来上がった医学者一家でございますわ、私はそうした人工培養のような学者種族をつくるための結婚など厭でございます」(pp.22〜23)
旧医科大学(きゅういかだいがく)とは、大正時代の時点で存在していた旧制9医科大学を母体としている大学の内、帝国大学へ昇格した大阪大学、名古屋大学、非官立であった京都府立医科大学を除く岡山大学、新潟大学、金沢大学、長崎大学、千葉大学、熊本大学の6大学のことで、大学病院格付をあらわすために用いられる言葉である。旧六医科大学、旧六、旧官六とも呼ばれる。
これらの大学はそれぞれ、岡山医科大学、新潟医科大学、金沢医科大学、長崎医科大学、千葉医科大学、熊本医科大学として戦前に活躍していた。旧制医科大学は、旧帝国大学に対抗する形でそれぞれの地方で強固な学閥を築き上げ、現在、各地域の医学部や病院をリードし、医学界に貢献する存在である。また、科学研究費補助金などの予算も、生命科学系分野では旧帝国大学に次いで大きい額を分配されている。これらの医学部では教授の純血率が高く、それゆえに各地域で誇り高く振る舞っていることが特徴である。(ウィキペディア「医科大学」より)

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Author:azev
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